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心に移りゆくよしなしごとを、教育、音声言語、認知科学、環境倫理などの視点から、そこはかとなく書いています
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繰り返しは偉大である  6.嫌な思いは簡単に長期記憶に
長期記憶には、「金閣寺を建てたのは足利義満である」「ドイツの首都はベルリンである」のように知識と通常呼ばれる意味記憶と、「先生にひどく怒られつらかった」「人にいじめられ嫌な思いをした」「カナダの壮大な景色を見て感動した」などの体験的な記憶であるエピソード記憶がある。前回まで書いたように、長期記憶は何度もリハーサルを繰り返すことによって脳に刷り込まれる。ところが、エピソード記憶の嫌な思いなどは、リハーサルをしなくても頭に残っていつまでも消えない。つまり、簡単に長期記憶に入ってしまう。これはなぜか。まだ完全には解明されていないのだが、情動をつかさどる大脳辺縁系の中の扁桃体と呼ばれる器官の影響を受けて、その時の感情とともにリハーサルを繰り返さないで長期記憶に入るという説や、嫌な思いをしたことは、どうしても頭の中で何度も考えてしまい、結果的にリハーサルを繰り返すため長期記憶に入るという説などがある。いずれにしても、記憶と情動が海馬付近で相互に関係していることは確かであろう。     (2021.6.9  続く)

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繰り返しは偉大である  7.心の傷
沢田研二「時の過ぎゆくままに」の歌詞に「体の傷ならなおせるけれど. 心の痛手は癒せはしない」というくだりがある。阿久悠は、知ってか知らずか情動と記憶が海馬付近で関係し合って長期記憶に送られることを歌にしている。強烈な痛手で長期記憶にこびりついてしまう。これは、多くの人が経験していることだと思う。先に書いたように、長期記憶の残っているということと、これを引き出せるということは別の話である。長期記憶の情報が引き出せなくなる、あるいは消えてしまうのが忘却だ。心の傷はなかなか忘却状態になりにくい。したがって、この心の傷の対処については、思い出さないようにすること、他に注意を向けること、に加え、人に心の傷をつけないようにするという心がけしかない。     (2021.6.16  続く)

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繰り返しは偉大である  8.覚える気がないのにフレーズが
「それにつけてもおやつは」「いつまでもいつまでも走れ走れ~」「ピアノ売ってちょーだい」「この木何の木」「家に帰れば~」と言われると、ほとんどの人は、後に続けてフレーズが出てくる。先日、歩行者用信号のように毎日見ていても覚えようと意識しなければ青が上か下かなど長期記憶に入らないという話をしたが、これらのCMはおそらく覚えようと意識しない人が多いにも関わらず、長期記憶に強く残っている。信号機とCMは何が違うのか。そのカギはメロディにありそうだ。メロディ、すなわち異なる高さや長さの音の列、これに我々はさまざまな感情をいだく。だから、我々は音楽を聴いて楽しくなったり悲しくなったり、感動したりする。感情。そう、海馬付近の記憶と情動の相互作用。これで、簡単に長期記憶に刷り込まれてしまうのであろう。     (2021.6.23  続く)

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子供の質問にはすぐ答えてはいけない  8.推論には2パターンある
推論は結論を導くための方法である。推論には、演繹推論と帰納推論の2つのパターンがある。
「犬は動物である」
「動物は死ぬ」
よって「犬は死ぬ」。
このように、いくつかの前提から結論を導出する手法は演繹推論と呼ばれる。特に、「犬は動物である」のように大きな概念の前提と「動物は死ぬ」のように小さな概念の前提から1つの結論を導く論法は三段論法と呼ばれる。これは、古代ギリシャのアリストテレスが対話の中で推論によく使い、基盤を固めていったものである。三段論法では、集合の包含関係を表すベン図で概念の関係を表現すれば、正しいことがわかりやすい。つまり、「犬は動物である」は「全ての犬は動物である」ということであり、犬は動物に完全に包含されその前提で結論が正しいことになる。もし、「ある犬は動物である」という前提であれば完全包含とはならず、結論は正しいとは限らないことになる。  (2021.8.25  続く)

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子供の質問にはすぐ答えてはいけない  9.必ずしも正しいとは限らないのによく使う
もう一つの推論は、
「アンドレイはウォッカが好きである」
「アンドレイはロシア人である」
「ニコライはウォッカが好きである」
「ニコライはロシア人である」
よって「ロシア人はウォッカが好きである」
のように、個別の事例から普遍的結論を導出する手法で、帰納推論と呼ばれる。帰納推論は、この例からもわかるように、個々の前提事例が正しくても、導き出される結論は必ずしも正しいとは限らない。特に、反例を1つでも示されれば結論の主張は困難になる。しかしながら、我々は日常生活において「静岡県人はおだやかだ」「最近の学生は挨拶しない」のように帰納推論をよく使う。必ずしも結論が正しいとは限らないのに、どうして多用するのだろう?それは、すべての事例を調べ上げることは不可能だからであり、結論は一種の近似的な解であるとも言える。言い方を換えれば、サンプリング(標本化)に基づき母集団の特性を推定していることになる。  (2021.9.3  続く)

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元研究者、元大学教員
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